「八幡清水」 昔、八幡太郎義家が奥州征伐のおり、この地に休息した。水を得ようとして矢尻で地面を突いたところ、清水がこんこんと湧きだし喉を潤したという。現在、泉は涸れているが碑が建っている。
「殿畑不動尊」 長山家の先祖が夢知らせを受け、滝壺から拾い上げお祀りしたといわれている。光圀が日立地方巡行の際に立ち寄ったという記録もある。ご本尊は、弘法大師の作ともいわれ、本堂は250年前の建物で昭和20年の戦災で焼け残り、昭和60年に大改修した。
「須賀神社(天王様)」 戦前、助川堀米の天王様として有名であった。祭礼(旧暦6月15日)の日は、子どもが榊みこしを担いで町内を1軒ずつ回り、榊を木刀で叩き切り神棚へ供えた。昭和20年の戦災で今の平和通り常陸ビル辺りにあった祠は焼失。戦後、学校に神社があっては好ましくないとのことで、中小路小でお祀りしていた津島神社の祠を現在地に遷座。その後、小山市須賀神社より分霊してお祀りしている。祭神は、須佐之男命。
「土佐 稲荷神社」 宇伽之魂命(ウカノミタマノミコト)を祀った稲荷神社は、土佐(高知)の人、恵仁が京都の伏見神社から分神したといわれている。土佐の地名もこれに由来しているかもしれない。旧暦2月の初午には北見姓一族の氏神様として祭礼が行われている。このあたり一帯は、豊富な水に恵まれ水田が広がっていた。
「高鈴梓人勧戒碑」 「鉄道の開通、日立鉱山の開業などによって、当高鈴村は人口,人家も増え、人も村も裕福となり 家を新築、改住する者も多く 建築関係職人は多忙を極め 産をなした。(中略) 後世に至って、これらの恵みを忘れ、職人達が仕事に励まず、怠けるようなことがあってはならない。」 と、職を勧め怠惰を戒める意味で、当時の梓人(大工職・大工の棟梁)達が発起人となって、この勧戒碑を建てたものである。 (仙台石が使われている)
「笠置島」 八幡太郎義家が笠を置き忘れたことで名付けられたというが、宮田川には大正初期の頃まで白魚(土地の人はカサギとよんでいた)が河口にむらがっていたことからカサギ島ともいった。
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