3.11震災体験:あの日の思い出  
金谷俊治

 今日は5月11日。あの日から1年2ヶ月が過ぎた。阪神・淡路大震災の時は数年で復旧・復興したという。しかし今回の東日本大震災は原発事故もあり、復旧・復興までに何年掛かるか見通しも立たない由。
 記録に残る大地震としては、1960年のチリ南部地震(M9.5)を筆頭に今回の地震(M9.0)は5番目の大きさになる。犠牲者の数では、2004年 のスマトラ・アンダマン地震・津波(M9.3)の28万3千人に較べれば、大地震・大津波の割には犠牲者が2万人弱に留まったのは幸いであった。 (1923年の関東大震災(M7.9)では、死者・行方不明者が14万3千人といわれている。)
 さて、2時46分(3分近く揺れたよに感じた)、ガタガタッときた時はリビングでパソコンを操作していたがすぐ近くのテレビにしがみついた。“液晶画面 が壊れる!”と無意識に思ったからだ。ダイニングとリビングの備付けの食器棚からは殆どの食器類がガチャガチャと音を立てながら落下して壊れた。ダイニン グに居たワイフは何か口にしながらうずくまってしまった。生きた心地がしなかったとはあのよう状態をいうのだろうか。何しろ71年間の人生で初めての経験 だったから。
 固定電話,携帯電話はNG、情報源は携帯テレビとラジオ。付けっぱなしにして情報収集開始。その時間から三日三晩電気が止まったが、電池の買い置きがなかったのには困った。携帯テレビやラジオ、それに懐中電灯等はすぐに使えなくなった。
 3夜真っ暗な夜を経験。家の中はローソク(初日の夜は懐中電灯)で淡い明かりがあったが、外は街灯,信号機,店の看板の明かりすべてが無く、文字通り 真っ暗(旧暦2月7日で月も無し)。昔はこうだったのだろうと改めて江戸時代までのいにしえを慮った次第。全く余談ながら、遠藤盛遠(後の文覚)が源渡の 妻袈裟御前を懸想し、夫にかわって殺すはめになったのも真っ暗闇の所為なれば。)
 4日目の夜電気復旧。パソコンを開いたら関西,広島方面から数十通の受信メールあり。中には「生きているのか死んでいるのかだけでも知らせて!」という のもあり。半数以上は郷里小中校の女性の友人からのメール。非常時には女性の方が心配してくれるのかなーと妙な新発見。
 一つだけ幸いしたこと、それは前日にガソリンをマンタンにしていたこと。水道は9日間断水だったので飲水は給水と貰い水、風呂はNG。そこで6日目に娘 家族と合わせ6人で大子町の温泉に行くことができた。上々の気分。ガソリンスタンドに長蛇の列で並んだのは3月下旬に一度だけ。
 政府も学者もそして東京電力も初めての経験なので右往左往し、稚拙な対応に終始したのは仕方がないとして、私としては学者に対する信頼を失ってしまった ことが悲しい。相反する「学説」にどちらのコメントを信じれば良いのか本当に迷った。今も人体への影響等について疑念が無いわけではない。
 日立市の私達はまだよい。東北3県の方達はまだまだ苦難が続く、気の毒なことです。 以上
 
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