125 御岩山の薩都神社奥宮
( 榎本 實 ・ 「郷土史を学ぶ会」 )

常滑壷

 御岩神社に大切に保存されている鎌倉時代の常滑焼の壷 (右画像) は 1959年 (昭和34年) 8月境内の 薩都神社址から出土したと伝えられている。 ところが出土した場所である "薩都神社奥宮" に至る参道が跡絶えていた。
 2009年 (平成21年) 3月 1日 日立市郷土博物館の 故 榎本實さんと 自主グループ 「郷土史を学ぶ会」 (代表 高橋功昌さん) のメンバーに地元の関正博さんを 加えた9名で "薩都神社奥宮" の在り処を探る踏査を行った。
 地形図を頼りに想定された沢を縦走して登擧したところ 旧い "砂防堤" を発見した。脇の急坂をよじ登って 尾根筋に達し、ついに "薩都神社奥宮" の石造の社 (下画像) を再発見することができた。

薩都神社奥宮

 御岩山中の "薩都神社" について
 『常陸国風土記』久慈郡の条に記された「賀毘礼の高峰」(現在の御岩山)に坐す神は、 立速日命(タチハヤヒノミコト)といい、雷神の性格があるとみられている。この山の神 をまつる 里宮 が延喜式内社の "薩都神社" (常陸太田市里野宮町) である。 御岩山中の "薩都神社" は 山宮 にあたるわけである。その関係は、春の稲作が始まるころに 田の神 (祖霊・雷神) として里へ降り、稲作が終わった後に山に昇るという農耕儀礼を意味する。

 【その後の調査】
 御岩山中の "血の池" は薩都神社奥宮と同様に その場所に辿りつくことが できなくなっていた。2009年 (平成21年) 3月 24日 日立市郷土博物館の 故 榎本實さんと「郷土史を学ぶ会」メンバーの9名で "血の池" の在り処を探る踏査を行った。
 地図を頼りに 想定される沢を縦走して調査したが 残念ながら再発見するに至らなかった。 地図に載っていない砂防堤が新たに構築されたことが確認されており、沢筋の湿地帯にあった "血の池" は地下に埋没したものと 想定される。

( 石祠写真 : 撮影 吉田 稔 ・ 編集 宇梶 秀夫   文責 : 吉田 稔 )


 参考資料 : 比毛 君男 御岩神社の常滑壷 市民と博物館 第89号 ( 2008年12月26日 )

         榎本 實 資料紹介 御岩山霊場図 市民と博物館 第65号 ( 2002年12月27日 )

         飯土井 博 賀毘礼山を歩く ふるさと探訪会 ( 1997年3月16日 ) 案内地図

         関 右馬允 御岩山略図 1935年 ( 昭和10年 )


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